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中高野街道(平野〜近鉄河内松原駅)②

喜連を抜けると、瓜破に至る。
その間を大阪メトロが走っているが、駅の名前は「喜連瓜破」(きれうりわり)駅。
まあ、普通は読めないわ。
面白いので、ウィキペディアを引用してみる。

駅名の由来
当初は『喜連駅』となる予定だったが、瓜破側住人が反発。駅の位置が喜連と瓜破の町界であることに留まらず、摂津国(喜連)と河内国(瓜破)の国境であることも相まって議論は平行線を辿り、結局、『喜連』と『瓜破』を一緒にしてこのような駅名となった。また、この両町名は難読地名として知られる。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

瓜破に入ってしばらく歩くと、西側に瓜破天神社がある。

本殿。

由緒:境内の由緒書より転用
瓜破の歴史を記録し唯一現存する船戸録(天文元年、1736記)によれば、 孝徳天皇の大化年中(645~649)当地に居住された高僧、船氏道昭が、 5月晦日三密の教法観念の折、庵室に光る天神の尊像が現れたので、西瓜を割って霊前に供えた。 道昭は朝廷に上申したところ方八丁の宮地を賜わり、この霊像を祭祀して当所の氏神と崇め奉り、西の宮又は方八丁の宮と称したのが当社の起原であると記されている。

人通りの少ない街道を南へ、南へ。

そろそろと思った頃に大和川に突き当たった。
突き当たったというのは、昔は高野大橋がかけられていたが今はなく、下流側200mのところに新しく高野大橋という名前でかけられている。

と言っても、大和川が付け替えられて、ここに橋が必要となったのは江戸時代以降。
それ以前は、普通に街道が通じていたことになるか。

航空写真には、はっきりと旧の高野大橋の橋杭の跡が見て取れる。

迂回して対岸に渡ったところからの振り返り(北方面を望んでいる)。
ちょうど真ん中の電信柱が密集しているあたりが、今まで歩いてきた中高野街道になる。

しばらく歩いて、阪神高速松原線の下をくぐる。

此処から先は、毎年初ウォーキングでお邪魔している、松原開運六社参りのルートと重なってくる。

屯倉神社。
西側の鳥居から参拝。

本殿。

大阪府内には道真伝説があちこちにあり、ここもその一つ。

当地には古くから土師氏(後の菅原氏)祖神の天穂日命を祀る穂日の社があったという。神社蔵の『三宅天満宮梅松院縁起』によれば、大宰権帥に左遷され九州へ向かう途中の菅原道真公は祖先由来の当地を通り、穂日の社に無実を訴えたとされる。しかし、大阪府内には当地から大きく外れた地にも道真伝説があり(大阪市東淀川区淡路、服部天神宮など)、真相は明らかではない。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

灯籠の裏にある年代を見ると、寛延とあるので(1748年から1751年まで)江戸時代。
古くからの由緒ある神社には変わりない。

更に南に歩くと、中高野街道の一里塚(跡)がある。
平野から1里なので、中高野街道は平野が起点という根拠にもなるのかな。

東側に、海泉池。
2021年の六社参りで記載していたようです。

今年も初歩きは・・・松原開運6社参り

海泉池の方から歩いてくると、子安地蔵尊がある。
六社参りのいつもの目印にしている。
画像は北向き、右側の細い道から来たことになる。

河内松原駅まであと少し。
長尾街道との交差点に来た。
これも振り返って北方向を見ている。

北東の角には看板が。

街道が交差する地点なので、人の往来も賑やかで茶屋があったようだ。

先程の中高野街道の看板の対角には、新しめの碑がある。

この先の近鉄河内松原駅で、本日は終了。

中高野街道はまだ途中ではあるけれど、今年のウォーキングはこれが歩き納めになりそう。
さすがに年末ともなると、やることをやっておかないと、機嫌よく街歩きに送り出して貰えなくなる。
大掃除に、買い物の付き合い、お墓もきれいにしておかないと。

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