河内街道~余談ですが・・・

河内街道と言う名称は、明治以降に出来たという。
今回は、さらに古い旧の河内街道を歩いている。

江戸時代あたりには、村落をつなぐ生活道路であったのだから、“旧”というのを付けた所で、当時の人は“旧”河内街道なんて呼んでいない。
(枚方に近づくにつれて、「ひらかた道」と呼んでいたそうだ。)

なので旧の河内街道と呼ぶのも違和感はあるが、
理屈っぽい話は抜きにして。
区別するために、旧の河内街道と呼んでおこう。

明治以降の古地図にある、村落をつなぐ道を現在の道路に当てはめる作業で経路を作り、街道ウォーカーのブログも参考にして特定してみた。
(仮説には違いない)

時代によって経路が違うことを実感したのが、道標の位置。
河内街道と暗越奈良街道の交差点に道標があると聞いていたが、今回は見つけられなかった。それもそのはずで、上述の話が絡んでくる。

以前、暗越奈良街道を歩いた時の画像を探してみたら、確かに道標を撮ってあった。ここが、河内街道と暗越奈良街道の交差点。
道標の出来たのが、明治45年とあるから本家の河内街道ということか。
この道標は、上の地点を東に少し入ったところにある。

もう一つの特色としては、旧の河内街道のほうが圧倒的に寺社仏閣が多い。歴史の古さからして当然ではあるが、村落や村落をつなぐ道に信仰は伝搬していくのだろう。

行基ってすごい人!?

大阪各地をウォーキングしていると、行基の名を目にすることが多い。今回の河内街道でも2つ出会った。

八尾にある、「常光寺」。

行基開基の岩田墓地。

河内国(現在の大阪府東部)に作られたとされる7箇所の墓地を河内七墓、もしくは行基
菩薩河内七墓ともいう。

河内街道も残り半分。行基にも着目して歩いてみたい。

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