俊徳街道・十三街道(四天王寺〜菱屋西)③

俊徳街道は、御勝山古墳の東側からさらに東側に向かうのだが、ちょっと寄り道。
桑津街道を北に向かうと「つるのはし跡」と言うのがあり、文献に記された中では最古の橋なんだって。
大阪市が整備している道路上の目印のおかげで、迷うことなく行き着いた。
つるのはし跡。
(個人的に)興味深い古地図があった。
ちょうど真ん中の「衣摺村」(きずりむら)と言うのは、実家のあるところ。左下くらいに「つるのはし)と言うのが赤字で見える。
下の画像の真ん中に立派な石碑。
石碑の周囲にある4本の親柱は移設されてきたようで、明治4年に架けられた橋の親柱かと思われる。
小野小町の歌碑もある。
来た道を戻るが、目印は有難い。
歴史の散歩道と刻まれている。
さて俊徳街道。
御勝山古墳から東に少し入ったところ。
西俊徳地蔵。
ちょうど街道の目印になったのだろうか。
解説には「お堂の前は俊徳街道で」という記載がある。
また、河内高安の長者の嗣子の俊徳丸が四天王寺にお参りの際に休憩したとの言い伝えも。
正面左には「大峰山三十三遍」の石碑があり、「宝暦」とあるので江戸時代のものらしい。
さらに東に歩くと、「西俊徳地蔵」と対になるように「東俊徳地蔵尊」がある。
脇の解説版には、お地蔵さんが室町時代の作ではないかと記載されている。
東俊徳地蔵尊のすぐ東には、俊徳橋。
川は平野川。
まとめてどうぞ!
ここからしばらくは俊徳街道の痕跡もなく、ひたすら歩く。
比較的直線的なのだが、杉山三記雄氏の「河内街道を行く② 俊徳街道・十三街道」によると、街道消失部分もあるようだ。
1900年前後の古地図を見ても、斜めに婉曲的に行きたいところが、区画整理されて迂回せざるを得ない。
かつての北八尾街道を横切るところ、牧野病院の裏庭に石碑があると聞いていたので行ってみた。
敷地内では無理かと思ったが、裏に回ると駐車場の横に建っている。
2基あるが、いずれにも「是より南 太平寺村」とある。
街道に戻って東進すると、近鉄俊徳道駅。
ここは、JRおおさか東線と交差しているところ。
上が近鉄で、下がJR。
俊徳街道は、この下をまっすぐ行く。
本日の終点、菱屋西配水場。
ここで区切ったのは、十三街道がこの地点で合流してくるポイントになるから。
次回は、布施の足代近辺(十三街道が暗越奈良街道から分かれるところ)から、十三街道を歩いて、この合流点を経由してさらに東へ向かう。
なので、俊徳街道と呼ぶのはここまで。
次回からは、十三街道。
十三街道は向こうからやってくる。
合流点の長瀬川にかかる菱屋橋。
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