竜田越奈良街道(南海今宮戎駅〜JR八尾駅)③

平野郷を出て、再び国道25号線を歩く。
宮前東交差点、この交差点は過去によく通っている。
昔は母親の実家に行くときに、最近では仕事で一時期勤めていた会社に行くときに。
過去と現在は交差するようです。
交差点の脇には道標が。

弘化二年といえば、1845年徳川家慶。
もともとこの場所にあったのかは?。

90度ズレているようにも思う。(知らんけど)

また暫く歩くと、不思議な構造物。
鉄道線路があったというのを聞いたことがある。

後で調べたら、廃線になった阪和貨物線(はんわかもつせん)跡だというのがわかった。

阪和貨物線(はんわかもつせん)は、大阪府八尾市の関西本線八尾駅から大阪市住吉区の阪和線杉本町駅に至っていた貨物線の通称である。正式には関西本線の支線であり、「阪和連絡線」とも呼ばれた。2004年に休止され、2009年に廃止された。」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

少し寄り道して、

新家天満宮。
御由緒を要約すると、菅原道真公が筑前(福岡県北西部)の太宰府に行かれる折、叔母の覚寿尼に別れの挨拶に立ち寄られた帰りに平野川を船で下り休憩された所だそうで「川べりの天神」と呼ばれて尊崇されていた。

境内に面白いものを見つけた。
かつて平野川から用水を引いていた樋門が残されている。

拝殿。

燈籠が4基配置されている。
いつものクセで、そのうちの一つの建立時期を探してみると文政8年(1825年)とある。
だいたい古い燈籠は江戸時代であることが多い。

さて中環(中央環状線)を越えて振り返るとこんな感じ。

中環を過ぎると、街道(旧道)らしき細い道に入る。
八尾市に入ったようだ。

寄り道は、跡部神社。

蘇我馬子が聖徳太子と共に、物部大連守屋をその阿都の館に攻めたとある阿都は、渋川を中心としたこの跡部の辺りをさすものといわれ、その住地にあるこの跡部神社は、物部氏の一族阿刀氏の祖神饒速日命(にぎはやひのみこと)をまつっているもので、式内社である。阿斗の桑市の館とか、阿斗の河辺の館の名が書紀に見え、当時物部氏の根拠地であった【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光著・八尾市市長公室市政情報課・八尾市郷土文化研究会1998年)】より抜粋。

拝殿に向かって、左手に大銀杏の木、右手には楠の木。
どちらも、お見事!

拝殿。

跡部神社の次は、聖徳太子が建立したという大聖勝軍寺。
仏教伝来をめぐり、崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋が対立、河内一円にて激戦となった戦いに、太子が16才の時に参戦したという。

大聖勝軍寺は聖徳太子建立三太子の一つで、叡福寺(太子町)の「上の太子」、野中寺(羽曳野市)の「中の太子」に対して、「下の太子」と呼ばれている。
いずれも参詣していて、やはり街道沿いにあるのが興味深い。

竹内街道(金岡神社から古市まで)

竹内街道(古市から磐城へ)

聖徳太子と四天王。

今日はJR八尾駅を終点に予定しているが、駅に向かう途中に碑があった。
「物部守屋大連墳」とあるが、先程の聖徳太子と戦って破れた物部守屋のお墓。
整備が始まったのは、明治2(1869)年から。その後、昭和42(1967)年に「物部守屋公顕彰碑」が建てられ、昭和62年には全国の有名神社によって墓地を囲む玉垣が設置されたようだ。

今日はここまで。

JR八尾駅から帰途につく。
直線的には交通がないので、久宝寺〜永和〜瓢箪山と時計回りにぐるっと廻る。
さて、次回は八尾から国分あたりまで行きたい。

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