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紀州街道(岸和田〜鶴原)②

ちょうど岸和田城の西側を歩いている。

この辺り、明治時代の家屋が景観を構成する要素として大切に保存されている。
いくつか紹介すると、

久住邸、日露戦争の頃の築。

表屋造りと言うのだそうだ。

こちらは、金納邸。
元は魚問屋。

これも明治40年頃には建っていたそうです。

景観を楽しみながら暫く歩くと、一里塚があった。
文字通り、街道の距離感を図るための一里ごとの目印であるが、紀州街道は脇街道になるので大阪の高麗橋が起点で和歌山まで設けられていた。

一緒にあるのは、弁財天。

ここで街道をそれて、国道の方に向かう。
見たかったのは、一つは岸和田だんじり会館。
大人は料金が600円です。

もう一つは、岸和田城だったが、こちらからはよく見えない。
以前訪れているので、こちらでご勘弁を。

岸和田周辺を散策

さて気を取り直して、街道に戻る。
こちらは、光明寺。

浄土宗のお寺。

今回、もう一つ見たかったのが蛸地蔵、天性寺。

天正年間(1573~86)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が尾張へ向けて大坂城を出発(小牧・長久手の戦い)した空きを突いて、秀吉配下の中村一氏が寡兵で守る岸和田城が、根来衆・雑賀衆に攻められ落城寸前となる。その時、大蛸に乗った一人の法師と数千の蛸がどこからともなく現われ、凄まじい勢いで敵兵をなぎ倒し、城の危機を救う。その数日後、城の堀から矢傷・玉傷を無数に負った地蔵が発見され、城内に大切に収められた。その後、文禄年間(1592~96)からは、天性寺内にある日本一大きな地蔵堂に移され、今に至るという。

蛸絵馬を納めるそうです。

灯籠と、その横にはレトロな郵便ポストがなんとも言えない。

天性寺を過ぎてふと見ると、こんなところにも岸和田市道路元標があった。
???

唯一海が見えたのは、ここ津田川河口。

鶴原までは、あと少し。

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